アルコール依存症患者の皆さんのお話を聞いて

今日は、アルコール依存症患者さんのお話を聞いた感想を書きたいと思います。

30代から50代ほどの男性および女性患者さんが大学に来てくださり、お話を聞く機会がありました。皆さんは「アルコホーリクス・アノニマス」という自助グループに所属しておられる方々で、依存症に苦しむ皆さんどうしで声を掛け合い、アルコールを口にしない日々の継続を目指しておられます。

まず、自らの苦しい経験を、何らかの形で社会に還元しようという皆さんの強い勇気のある決意と決断に敬意を払いたい、そんな気持ちになりました。

今回のお話を聞いて感じたことは、自分も含めて社会のアルコール依存症に対する無知ぶりでした。

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テーマ : 医療・病気・治療 - ジャンル : 心と身体

手話で診察するお医者さん・藤田保先生のお話を聞いて

藤田保先生は、手話で診察する「聴覚障害者外来」に取り組んでおられます。

藤田先生自身が中途聴覚障害者で、20代の頃に癌で聴力を奪われました。それでも、周りの協力を受けながら、読話や手話を習得して診療を再開されたそうです。

そんな今回の講演で最も印象的だったのは、聴覚障害者を対象とした調査結果についてです。

「日常生活で困ること」の回答で最も多かったのが「病院での診療」だったそうです。
これまでも様々な機会に、聴覚障害者の方が困る場面はなんだろうかと考える機会がありましたが、もっと日常的で頻度の多いこと(例えば電車に乗るときなど)についてしかイメージしていませんでした。

心理学でいう「マズローの欲求階層説」を思い出させられました。
人間の欲求は五段階あり、優先順位があるというやつです。

最下位の欲求は「生理的欲求」(食欲など)、
その次は「安全・安定の欲求」、
そして「親和の欲求」、「自我の欲求」、「自己実現の欲求」
という順番。

このことから、生命・健康に関わる「安全・安定の欲求」を満たされないということは、人間にとって非常に大きなフラストレーションになることが理解できます。
さらに高次な欲求である日常的な不便や不満が二の次になるほど、医療という「安全・安定の欲求」が満たされない状況は非常に苦痛なことなのだと理解しました。

ということは、聴覚障害者の方にとって医療への不満が特に深刻だということはもちろんですが、これはつまり、健常者にとっても「病院での診療」に関する不満は非常な苦痛となることを示します。

医療従事者の責任の大きさを痛感します。

一方、医療を誰にとってもアクセスしやすくするこのようなきめ細かな取り組みを広く推進していくためには、医療経済的な国民レベルでの合意が必要となるように思います。

今、日本は闇雲に医療費削減に動いていて、このような取り組みに社会が目を向けるのか心配な状況です。このような取り組みに目を向ける社会というのは、聴覚障害者だけでなく健常者にとっても優しい社会であると思います。他の先進国の医療費とも比べながら、日本ではどのような医療を求めていくのか、医療従事者の中だけでなくそろそろ国民的に議論していく必要があるのではないか、そう思います。

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「一人称の死を考える」 故中川米造先生のビデオを見て

 中川先生は、医療倫理の観点から日本の医療や医学教育などについて、幅広く声を上げておられた先生です。
 例えば、日本の医学・医療の家父長制度的な問題や、医学を自然科学の一つとして捉えるのではなく人間科学として捉え直さなければならないといったことについて、古くから声を上げておられたそうです。

 しかし、今回見たテレビ番組では、自らの癌に向き合った中川先生の姿が描かれていました。
 自らが死に向き合う中で、人が自分の死をどう迎えるか、「死に方」について新たな想いを抱かれたそうです。

 「一人称の死」
(ひとごとでも親しい誰かの死でもなく、自分自身の死)
を一体どのように受け止めたらいいのか。

 きっと自らの死を現実的に身に迫るものとして考えたとき、誰しも本当に死というものが怖くなり、自分の生をどのように意味づけたらいいのか悩み苦しむときがあると思います。

 それについて中川先生は、
「生きたことの価値や意味は永遠であるのだから何もおろおろすることはないのだ」ということをおっしゃっていました。

 僭越ながら以前私も、いのちや死について考えたときに似たような考えに至ったことがありました。稚拙ながらその考えを振り返ってみました。

 いのちの本質とはなんだろうか、それを考えたとき、私は「引き継いでいくこと」なのだと考えました。生命を生物学的に定義するなら、それは「自ら自分を維持できること」「それを後世に残していけること」といったところでしょうか。
 後世に残していけるというのは、「生物学的」には「身体」を子孫を通して残していくことだと思いますが、人間のいのちに関してはこうした種の保存に加えて、文化の継承も大事な要素のひとつなのだと思います。
 「文化」の継承というと大げさですが、個々人レベルで言えば何も文明史に名を残すというようなことではなくても、人生の中で関わった人々の心に何らかの影響を残していくことが「継承」なのだと思います。
 それもやはり「誰かの印象に残らなければならない」といったたいそうなものでもなく、人と関わりあいながら生きてきた、ただそれだけで、何かを残しているのだと思います。
 何万年かの遥かな人類の歴史の中でそうして少しでも関わりができたというだけで十分大きな役割を果たしているのではないでしょうか。

 そうした意味で、先生がおっしゃられていた「死に方」というのは大事な時間に違いないのだと感じました。いわば、自分のいのちを後世に引き継ぐ「引継ぎの儀式」の時間のように思います。
 家族との会話やふれあい、看護師や医者、同室の入院患者さん、清掃係の方など周りにいる方々との会話や会釈、アイコンタクトの機会や時間。
 そうした時間を大事にすることは、医療従事者に課せられた大切な責務だと思います。人間の死に関わる職業である以上、単に病気を治すという役割だけでなく、安らかに死を迎え受けいられる環境にも配慮する役割があるように思えます。

 そんな観点から、人生の「仕上げ」をサポートする医療(いわゆる「終末期医療」)を考え直してみたいと思いました。

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がん告知ロールプレイ

 医学部の授業で、「がんの告知」を模擬的に体験する授業がありました。
 「ロールプレイ」形式で、学生同士が医者役、患者役、ご家族役を分担して体験してみるという形です。仮想の患者さんの病状や経緯、ご家族を含めた家庭状況などの情報について、医者役、患者役、家族役が、それぞれが知りうる情報だけを予め頭に入れた上で実演に臨みます。

 たとえば医者役には、検査結果などの病状や、余命などの予後などに加えて、あらかじめご家族に話をした時のご家族の反応や、ご家族が小さなお子さんを抱えていること、年老いたご両親の面倒を見ていることなどの情報が与えられます。
 一方、家族役には病状に加え、患者本人の性格などの情報が与えられます。
 そして患者役の本人には本当の病状は知らされず、「大したことのない病気だと説明されてきたこと」や養うべき家族のことだけが知らされています。入院中の親の介護や子どもの様子が気になる状況の中で、「今後いつ調子が良くなってきて、一体いつ復帰できるのか」という疑問を抱いていて、「今度話を聞いてみよう」と考えているというような感じです。
 そこで、今後の治療について話をする場が与えられて、ぶっつけの実演が開始されます。

 今回の講義の主題、「告知」の問題については、頭では理解しているつもりでした。
ロールプレイについても、頭の中では「こんなもんだろう」というイメージは持っていました。

 しかし、実際にロールプレイをしてみることは想像とはまったく異なりました。

 今回は患者役をしたのですが、冒頭で今後の生活のことを聞いてすぐに告知を受けました。
 なるほど「頭が真っ白になる」ことまでも模擬的に体験することができました。
 頭の中で子供のことや親のことなどいろいろ考えつつも、突然のことでそれぞれ考えはまとまらず、何を口にしたらいいのかわからないまま、「外形」としては言葉通り「絶句状態」でした。
 「絶句」とは、「頭の中が真っ白」とは、どういうことなのか、わずかだけでも感じられたように思いました。これが本当に自分の事だったらと考えると、想像を絶します。

 これまで単純に「告知は行った方がいい」と考えていました。
 患者の知る権利、考える権利、選択する権利を考えたということもありますし、医療者側の責任逃れ的思いもあったと思います。

 しかし、安易だったというか、まだ考えるべきことがたくさんあると気付かされました。いずれ告知は行うにしても、その行い方はケースごとに異なり、セオリーなんてものはあるはずのないものかもしれません。その患者と家族に最もふさわしいコミュニケーションをするためには、当然その患者や家族の人となりや背景まで知る必要があります。まさに「患者のための医療」というのは狭義の医療技術が優れているだけではない、それが全人的医療なのだろうと思いました。

 正直、このように考えると、改めてなんと責任の重い、深い思慮のいる立場に就こうとしているのか、身の引き締まる思いがします。しかし、手を抜くことができない、真剣に取り組くべき役割を将来任せてもらえるのだという、やりがいも同時に感じます。

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車いすのお医者さん・荻田謙治先生のお話を聞いて

 荻田先生は、電動車いすで診療をされている精神科医です。大学生の時に事故で脊髄損傷してしまい、手足が自由に動かせなくなってしまったそうです。
 そのことによる苦労や葛藤、医師を目指すことへの迷い、それを支えた仲間や大学などのお話は大変印象的なものでした。
 しかし、もう一つ考えさせられたことについて書きたいと思います。
 
 今日の医療に対する社会の要望に、「患者の目線に立った医療を」というものがあります。

 ご講演の中で、患者の認識と医療者側の意識とが食い違っている例が挙がっていました。例えば「十分に説明している(されている)と思うか?」という認識についてです。
 多くの医療者側は現時点でもそれなりに「患者側の視点に立っている」つもりなのだと思います。しかし、患者の側はそのようには感じていません。

 荻田先生がおっしゃられたように、患者側の実際の感覚・心境を理解できるほど医療者側の経験や想像力は決して高くなく、理解しきれていないのだろうと思います。
 理解しきれていないかもしれないという当たり前の認識を持つ。自分の知識や経験、想像力が不足しているのだということを、診療中や普段から意識する。それだけでも大分違ってくるのではないかと思います。わかりたい、わかろうという姿勢や態度が重要なのかもしれません。

 ただ、経験や想像力は、医師になってからはもちろん学生のうちから高めるべく努力のできるものだと思います。医学生は様々な経験やいろいろな人の話を聞く機会に恵まれています。是非活かしていきたいと思っています。

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